ヨナという人が居ます
ヨナは、悪いことをしたニネべという町の人々が悔い改める(ごめんなさいと言って再び罪を犯さないこと)ことができるように話に行ってほしいと神様に頼まれます
神様は悔い改めて、許すことを願われました
しかし、ヨナは、神様の言葉を伝えることを嫌がりました
ヨナは、ニネべの人々が許されることを願わなかったのです
このエピソードを聞いて、自分とリンクする部分を考えてみた
私も知らないうちに、ヨナみたいになってたと思った
自分がちょっとよく出来る部分があるからって、その人に私のようにしてと言うのは、相手を責める事になりかねない
私にそんな事できる!?
出来ません
私にできないこと沢山あるから、、、、
神様は、全ての人を許される
私もたくさん許してもらったと思う
そして、その人がより良くなるために、神様は状況を変えて、気がつくようにもされるかもしれません
しかし、私がその人の全ては分かりません
神様では無いから
それなのに私が指摘するのとは、相応しく無いと思いました
でも、良かれと思ってアドバイスしちゃう事があるんですよ(-_-;)
私が、こうやってできたからやってみて
一つの案としては良いけど、もしも、絶対した方が良いよみたいな圧力になってたら、それは、相手への指摘にもなりかねないと思いました
私にもできてない部分があるのに、相手の足りないところを指摘するのか
聖書で
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。・・・まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう
(マタイによる福音書7章3節~5節)
とあります
私が良くなったから、出来ると思うんだけど
と思うけど
ホントに、人それぞれ
その人ができる事が、私は出来ません
私ができる事が、実は他の人にとってはとっても難しい事だったりもする
私のできる事を、人に押し付けるんじゃなくて、自分のできる事を活かしていくならば、とても素敵です
神様の御言葉を実践することに使えば
自分ももっと変化して有益だし、人も有益になります
自分の出来る事、それぞれを持ち寄って、お互いに認め合って協力出来たら、素敵なものができそうです
人にばかり何かをやるんじゃなくて、自分が行ってつくってこそ、実はもっともっと良くなるんだと思った
投稿者プロフィール
でも、神様の愛を知って、今なら、家庭を築いていけるかもと一歩一歩進んできた道。
今も、新しい事にドキドキしながらだけど、家族がとても愛おしくて、結婚して良かったなーと毎日思ってます。
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