生まれた時から 何度か
「神様が 見ているよ」とか
「神様のおかげだね」とか
周りの人が話しているのを聞いて
どうやら「神様」は 私たちの
生活に存在しているようだと
「神様」をなんとなく感じていたけど
「神様って 本当にいるの?」
という言葉も よく耳にして
「よくわかんないな」と
深く考えずに 生きてきました。
そんな私が ひょんなことから
摂理の御言葉に 出会いまして
「神様」のこと 1つ1つ 丁寧に
そしてズバリと 教えてもらいまして
「私のそばにも神様がいること」を知り
それを 確かめるために
「神様を生活の中で感じること」への
挑戦が始まったわけです。
その挑戦は かれこれ12年続いており
現在もなお 研究中(←長くなりそうです)
「神様を感じるってどういうこと?!」と
もがきながら 挑戦した記録を
今回は 集めてみました☆
もくじ
自分の生活がいとおしくなる方法
目にうつるものを カメラにうつすと
ちがって見えることがある。
ふだん 当たり前に 見ているもの
当たり前に 生活している 空間を
カメラで とってみる。
スマホのカメラで 十分。
照明もそのまま 画質もあらめで。
その方が 生活感が 出てくる。
カメラから 見ると
1つ1つに 物語を 感じる。
1つ1つが いとおしくなる。
なんでだろう。
カメラの魔法でしょうか。
うまく 撮ろうとせずに
そのままを 撮ってみて。
そのままで いとおしい。
そう 気づくことが
そう 思えることが
実は 大切なのかも。
カメラで写した 私の世界に
神様の気配を 感じることが
できるかもしれません。
こどもは「神様の目」をもっている
こどもの目は 澄んでいて
おとなが見逃すものを 見る
そんな力が あるようです。
よつばが幼稚園の頃に 描いた絵
「おかあさんのおしろ」
「わたしがすみたいおしろ」
とってもカラフルで
この世界では 見たことない
天国の ステキなおしろ。
幼稚園児のよつばに
天国を 見せてもらいました。
時は過ぎ 成長しても
よつばは 絵で 見せてくれます。
「今日と 明日と あさっての
おかあさんの 天国ファッションだよ」
髪の毛が多くてかたい 私は
ふわふわのロングヘアが 憧れ。
天国で 夢がかなうんだね。
おとなが いくら目をこすっても
見えない世界 見えない姿を
こどもは その澄んだ目で
するりと 見てしまう。
神様と おんなじものが見える
「神様の目」を もっている。
だから 見れちゃうんだね。
<考え>で 全能者 神様の考えとつながる。
<考え>を集中すれば その考えが
「映像や画面」として見える。
<考え>も 肉体のように老いたら
ちゃんと考えること 見ることができない。
(摂理の御言葉より)
考えも 肉体も 少々老い気味ですが (-_-;)
こどもの力を お借りして
「神様を感じること 見ること」を
助けてもらっています^^
「目の前のしあわせ」を逃さない方法
朝 笑顔ではじめたら
その日 ずっと
しあわせが続く気がします。
でも 家事をこなすのに必死で
私ひとり忙しくして
娘と主人がのんびりして
心の中が イライラでいっぱいです(>_<)
こうなると せっかくある「しあわせ」も
「しあわせ」として見ることができなくなります。
摂理の御言葉は
目の前のしあわせを逃さない方法を
教えてくれます。
どんな時も 感謝することを忘れずに。
どんな時も 悪いところよりも
まずはいいところを見つけよう。
どんな時も 前向きに 肯定的な考えを選ぼう。
どんな時も きつい言い方をせずに
相手を穏やかにする言葉を言おう。
この御言葉の精神を 心に入れておけば
目の前のしあわせを ちゃんと
キャッチできる気がします。
「心に御言葉を入れておくこと」が
「しあわせを感じる」「神様を感じる」
最初の一歩なんですね^^
本当に大切なものは分かりづらい
ダメなところを 見るのでなく
いいところを 見たらいいと
よく 聞きますが
これを 毎日 変わらず
キープすることは
すごく 難しいです。
料理を つくっても
「おいしい」と言ってもらえない。
掃除を がんばっても
「おつかれさま」は当然ない。
ない ない ない
「ないこと」は こんなに
簡単に 見つけることができるのに
「いいこと」は どうして
こんなに 見つけられないんだろう。
その都度 その都度
自分で 自分を 認めてあげたり
神様に 励ましてもらって
しのいできましたが
根本的に 脱がないといけない
「自分の殻」があると
うすうす 気づいていました。
今日 期末テストが終わったお祝いに
よつばと マクドナルドに行きました。
(誕生日も お世話になります)
苦手な駐車を バッチリ決めた私
「おかあさん うまいわ~」と自画自賛。
「うわ 自分で言ってるわ」と よつば。
「自分で言わな だれも言ってくれんし」と私。
「心の中で『おかあちゃん 運転がんばれ☆』
って 私も 思ってたよ」
そう よつばは言いました。
無言で 応援してくれたなんて
私 全然 分かりませんでした。
やさしさも 励ましも
はっきり 言葉に出してくれたら
分かりやすいけれど
そうはいかないことが多いです。
実際にあるのに もらっているのに
分かりづらくて 気づかないこと
たくさんあるんだと思います。
同居している お義父さんも
そうなんだと思います。
私のつくった料理に
「おいしい」とは 言ってくれないけど
仕事と 掃除と 料理をする私に
なにも 言ってくれないけど
言葉はなくても 私のこと
応援してくれているんだと思います。
御言葉で 教えてもらいました。
「自分が 分かろうと 努力してこそ
大事なことに 気づくことができます。」
自分がもらっている 幸せも いいことも
自分が努力しないと 見つけられない
分かりづらいもの。
でも 探せば ちゃんと見つかる。
探そうと 努力する人を
神様は とっても 愛されて
愛していることが 分かるように
心に 働きかけてくれるから。
言葉に出さなくても 分かる
そんな域に 達してみたいです。
プレゼントにこめられた真心
ひとりひとりを 愛している神様は
その人の好きものを 一番よく知っていて
その人の喜ぶものを 一番いい時に与えて
神様の愛を 伝えてくださいます。
娘よつばが 小学生の時
「プリ〇ラ」のカードが 大大大好きで
おとうさんが どっさり買ってくれました。
すごくはしゃいで おとうさんに
お礼の手紙を せっせと書く娘を見て
「神様が くださったんだなぁ」と
感じるようになりました。
これまで 「プレゼント」しか見えなくて
「くれた人」しか 見えなかったけど
やっと「神様」が 見えてきました。
今までもらってきた プレゼントの1つ1つにも
神様の 真心と愛が 込められている。
どのプレゼントも 本当に大事なものだったんだ。
鄭明析牧師が 御言葉で教えてくださいました。
「そのもの自体の値打ちより
天からどのような経緯でもらったか
その経緯の値打ちがもっと大きい。」
「プレゼントより そのプレゼントを与えた時に
神様がおっしゃった言葉と御心が
もっと大きい。」
摂理 主日の御言葉より
くださった方に 心から感謝すること。
そして プレゼントを大事に使い
今度は 自分が頑張ること。
目に見えるものに 神様を見つけて
「神様を感じる生活」にしたいです^^
御言葉を聞くだけでは 分からないんです・・・
ある精神科医の方が
こうおっしゃっていました。
「患者さんに なにか伝えようとする時
言葉だけでは 分かってもらえないことがあります。
そんな時 絵や歌やダンスのセラピーが
力を出すんです。
言葉でない 体のうごきや 芸術が
心に『共感』を生むんです。」
そのお話が 耳に残りました。
そんな感覚 確かにあるなって。
御言葉が 神様からの「答え」なんだけど
頭でっかちになって 自分で難しく考えて
心で『共感』できないことがあります。
御言葉を聞くだけでは 分からないんです。
神様は そういうことも ちゃんとご存知!
摂理には 賛美や スポーツや 展覧会も
いっぱい いっぱい 用意されています。
御言葉では感じなかった 神様のぬくもり
賛美のメロディで 感じたり。
なかなか分からなかった その人のいいところ
いっしょにスポーツをしていると 実感したり。
言葉でない 体のうごきや 感覚が
心を もみもみ やわらかくしてくれて
御言葉も やわらかく 心に届いてくる。
やわらかくなると 『共感』できる。
御言葉にも 神様の愛にも。
「御言葉は 聞くものではない。実践するものだ。」
摂理 鄭明析牧師の御言葉より
最初はよく分からなくても 大丈夫
やりながら 分かっていくもの。
じっとして 頭でっかちにならずに
目に映るもの 耳に聞こえてくるもの
体のうごきの 1つ1つをとおして
『神様と共に感じる』生活を始めたいです。
涙が出そうになる時
今でも 時々
涙が出そうになる時があります。
主人は おもしろくて
しっかりしていて
仕事もすごくがんばって
時々 イライラしたり
時々 カッとなります。
家族と 主人の同僚の人たちと
バーベキューをしていた時
私が テーブルの上を片づけていたら
「まだ使うのに 勝手に片づけるな」と
主人に 怒鳴られました。
同僚の人も 一瞬 止まって
私も 心が ビクッとしました。
これまでも こういうことは
何度もあったけど
今もまだ 平気じゃなくて
これまでの 心のいたみが
底から あふれそうで
蓋をしめることに 精一杯でした。
でも 蓋のすきまから
涙が こぼれてきて
「トイレに行く」と言って
その場を 離れました。
広い芝生の上には
にぎやかな 笑い声。
丘の上には しずかな展望台。
展望台から 見下ろせば
なにか見えるかも と思って
長い階段を上がりました。
一歩ずつ 上がるたび
「これまであったこと」を
思い出しました。
そして 今もまだ
涙が出そうになる私は
あの頃の 弱いままの自分のようで
あの頃と 変わっていないようで
うつむく私の心に 声が届きました。
「あなたの一歩は
どれも 無駄じゃないよ。」
「ここまで がんばってきたように
これからも いっしょにいこう。」
だれもいない階段で
涙が あふれました。
鄭明析牧師が 教えてくれました。
「患難の時 困難と苦痛に見舞われる時
『それまでやっておいたこと』を見なさい。」
(摂理 主日の御言葉より)
「それまであったこと」を見ると
その時のいたみが 押し寄せて
また かなしくなっちゃうけど
「それまでやっておいたこと」を見ると
その時も 神様が
そばにいて はげましてくれて
前に進むことができたことを
思い出すことができる。
あの時みたいに
ちゃんと そばにいるよ。
ちゃんと 打ち勝てるよ。
そう 言ってくれているようで
少しずつ 元気が出ました。
「トイレ 長かったね」と
心配そうに よつばが言いました。
「心配かけてごめんね」と
わらって 答えました。
私は 今もまだ
ぜんぜん 変わっていません。
ひとりだと すぐ
涙が出そうになる。
でも それでいいんですね。
ひとりだと できないよ。
いっしょだから できるんだよ。
そのたび そのたび
そのことが ハッキリ分かるから。
神様と一緒なら 強くなれる。
涙も そう悪くない^^
これからも そばにいる神様を感じて
くりかえし 時間をかけて
がんばろうと思います^^
となりにいる しあわせ
となりに 話せる人がいることが
しあわせなことだと 知りました。
ずっとひとりで生きてたら
分からなかった しあわせ。
さいしょから ふたりでも
分からなかった しあわせ。
ひとりだったことがあり
出会って ふたりになれたから
分かる しあわせ。
ふたりでいるのが 当たり前になると
分からなくなる しあわせ。
突然 目の前から消えた時
痛いほど分かる しあわせ。
となりに あなたがいる しあわせ。
あなたが 私の 最高の自慢です。
あなたといっしょにいることが
私の 最高のしあわせです。
このしあわせ なくさずに
となりにいる あなたを
今日も感じて 生きたいです。
関連リンク
「神様を感じることは本当にできますか?摂理主婦の体験日記②」
「心の悩み」シリーズはコチラ☆
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投稿者プロフィール
- 青森→兵庫在住。16歳の娘のおかあさん。結婚してから摂理に出会いました。いつか主人にも御言葉伝えたいな☆
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